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大阪「咲くやこの花賞」受賞…! 呉勝浩さん『おれたちの歌をうたえ』序章&1章公開します

 呉勝浩さんがこのたび、令和3年度「咲くやこの花賞」を受賞されました! 昨年は『おれたちの歌をうたえ』で第165回直木賞にノミネート、年末には「週刊文春ミステリーベスト10」にもランクイン!!
 この機会にもう一度『おれたちの歌をうたえ』を味わっていただけたら… ということで、序章と第1章を公開いたします。

呉勝浩さん

これまでの反響  

 年末には、書評家・若林踏氏が「リアルサウンド認定2021年度国内ミステリーべスト10」で「今年の1番!」と推してくださったり


 書店員のみなさまからも熱い感想をいただき、呉さんと一緒に感激しておりました。

 
 下記、序章と第1章をお読みいただいたら、こちらの呉さんのインタビューにも触れていただけたら幸いです。



『おれたちの歌をうたえ』

昭和四十七年

 吹雪の向こうに、巨大な影を見たという。ゆうに十メートルはありそうな、巨人の影だったという。二本の足で立つそれが、じっとこちらを見下ろしていたのだと。まるで炎を背負う軍荼利明王ぐんだりみょうおうだったのだと。戦争が終わった年の冬。ハルビンからハバロフスクのあいだのどこか。なぜそこにたったひとりで迷い込んでいたのか、祖父は語りたがらなかったが、ただ、巨人の影については懐かしそうに、そしてうれしそうに聞かせてくれた。自分が生き延びた奇跡など、たいした話じゃないとでもいうふうに。

 祖父はそのときの吹雪を、天がふるうむちだと表した。うねるように吹きつけてくる風、降りそそぐ雪の銃弾。見わたすかぎりの白い沼。ろくな装備もなく、すぐに皮膚の感覚がなくなって、じっさい指を六本も失った。両足と両手で三本ずつ。右手の人差し指は自分で食いちぎった。理由は憶えていない。腹が減ったのか、意識をつなぎとめようとしたゆえなのか。太陽の方角、時刻、日にちすら怪しい状態で、ここがソ連なのか満州なのか、あるいはすでに彼岸なのかも判然としないまま、ひたすら盲目的に、進まねば、と念じつづけたのだという。

 巨人の影は、最後の気力が底をつき、ばたりと身体が崩れ落ちたとき、現れた。
 ――導かれる、というやつだ。
 しみじみとした口調で祖父はいった。
 ――吹雪の向こうで仁王立ちしていてな。それが、こう、ふり返って、先へ歩いてゆくのだ。おれはそれを追いかけた。精も根も尽き果てて倒れ込んだ男が、呼吸のひとつすらあきらめかけていた男が、顔を上げ、目を凝らし、うように雪をかきわけ、影の背を追ったのだ。まだなのだと。おまえはまだ、順番じゃない。生きて果たす役目がある。だから、進め。そう、影に命じられた気持ちになってな。
 話が一段落すると、祖父は決まって頭をなでてくれた。指が足りない手は温かく、頼もしかった。

 いま、目の前で、ずんずんと雪が降り積もっている。雑草くらいの丈が膝の高さに育つまで、もうあと三十分もかからない気がした。薄曇りの空から黙々と落ちてくる欠片かけらたちに、そのいきおいを減らす気配はまるでない。
 首に巻いたマフラーをぎゅうっと絞った。思わず足踏みしそうになるのをこらえた。手袋を固めて拳をつくり、ガチガチと鳴る奥歯に力を込める。すでにここでけっこうな時間を過ごしているはずだ。足もとへ目をやると、雪の沼がすねのあたりまで迫ってきている。
 このまま抜けだせなくなったらどうしよう―。そんな不安に襲われた。寒い。怖い。心細い。仲間のもとへ駆け寄りたい。せめて呼びかけ、返事がほしい。ここにいるのが自分ひとりでないことを確かめたい。そしてペンションに帰って風呂を浴び、熱いお茶を飲んで煎餅をほおばって……。
 歯を、食いしばる。あふれる臆病を噛み殺す。
 押しつぶしてくる静寂にあらがって、小さく歌を口ずさむ。くじけそうな心のために、精いっぱい陽気なテレビ漫画の歌を。
西から昇ったおひさまが 東へ沈む――

 気がつくと、凍える独唱に想像の声が重なっていた。あいつらの歌声だった。音程もばらばらな四つの声が、まるで肩を寄せ合い、腕をふって叫ぶぐらい、騒がしく。
 体温が上がる。へたっていた心が奮う。
 ほどなく、降りしきる雪のずっと向こうに、それが見えた。ぱっと空に放たれるように、まっすぐのびた。瞬間、祖父の手のひらを近くに感じた。
 ああ、そうか。やっぱりあれはそうだったんだ。おれの前にも現れたんだ。
 じいちゃんを導いた、巨人の影。
 ――あれのおかげで、おまえに会えた。
 じいちゃんは頭をなでながら、いつも最後にこういった。
 ――こんなにも、美しい未来にな。

第一章

さよならの今日に 令和元年

 心当たりのないコールにたたき起こされる目覚めほど不快なものはなかった。歳月に黄ばんだカーテンをものともせず差し込んでくる朝陽に汗ばみながら、ついさっき、ようやく眠りのとば口にたどり着いたタイミングであればなおさら。
 涼しい顔でわめきつづけるスマートフォンは見知らぬ番号を示していた。仕事柄、人間関係の出入りは激しいほうだが、河辺久則かわべひさのりにはただすれちがうだけの人間とわかりきっている番号でも欠かさず登録をする癖があった。相手の特徴を打ち込んだだけのアドレスは百ではきかない。無言イタズラ。女四十代だみ声、間違い……。意味はないし用途もない。たとえおなじ「無言イタズラ」や「女四十代だみ声」からコールがあっても、きっと無視はしないだろう。げんにいま、河辺は知り合いの可能性がほとんどない未登録の番号を通話にしようとしている。かかってきた電話には出る。これもまた習性だった。
〈おっ〉
 つながると同時に電話口の向こうで反応があった。
〈えーっと、あんた、河辺さん?〉
「誰だ」
〈へ?〉
 上ずった声に重ねる。「誰だ、おまえ」
〈な、なんだよ、いきなり〉
 声のトーンもしゃべり方もずいぶん若い。せいぜい二十代。ふつうに考えれば男性だ。
〈誰とか、おまえとか……それは、ちょっと失礼じゃねえの?〉
「ふざけるな」
 息をのむ気配が伝わってくる。電話には出ても、人の就寝を邪魔する無礼者にやさしくしてやる習性まではもっていない。
「いいから名乗れ。嫌なら切って、もう二度とかけてくるな」
〈いや、じゃなくて……なんなんだあんた、その態度〉
たどたどしい文句がつづく。男の口調にははぐれ者特有の雑さがあった。水商売、闇金、売人。どのみち下っ端だろう。昔とちがい、この程度でまごつくガキが特殊詐欺で高級外車を乗り回している可能性もなくはない。だが河辺には関係ない。風俗や金貸しの営業、強請ゆすりたかり、仕事の誘い、よろず相談……どのパターンであろうと話が弾むことはあり得ない。「相手を選ぶんだな」と返して終わりだ。「男二十代きょどり、目的不明」とでも登録し、寝直すだけ。
 そのはずだった。

〈あんた、ゴミサトシって知ってるか〉
 不機嫌に告げられた名前に意識が跳ねた。五味佐登志ごみさとし。     
 すぐに変換できた。
〈あんたが河辺さんなら――〉
「待て」言葉をさえぎって身体を起こした。座り直す拍子に、いつ底が抜けても不思議じゃないパイプベッドがぎしりと悲鳴をあげた。「――とりあえず、名乗ってくれないか」
〈またそれかよ。いいだろ、べつに。おれが誰でも〉
「心苦しいんだ。いつまでも失礼な『おまえ』呼ばわりじゃ」
 適当に会話をしながら頭をなでる。薄い短髪がざらつく。頭からサイドテーブルへ左手を移動する。掃除という文化を卒業してひさしいが、ここはマシな一帯だ。キャップをなくして五日ほど経つペットボトルをつかみ、一気にあおる。味がする。どんな味かは、ふつうの語彙ごいでは表せない。だから河辺は液体を、黙って胃袋に落とした。
〈シゲタだよ〉
「シゲタ? 字は?」
小さな舌打ちが聞こえた。〈草冠の茂るに田んぼの田〉
「下の名前じゃ、ないんだな」
〈決まってんだろ、うっせーな〉
「じゃあ茂田しげたくん。君は佐登志と、どういう関係だ?」
〈おい〉苛立いらだちが耳を打つ。〈先に質問したのはこっちだ。あんたが河辺なのかちがうのか、まず答えろよ〉
「河辺だ。河辺久則本人で間違いない」
 風下に立つのはしゃくだった。だがここで電話を切られるわけにもいかない。つくった拳をゆっくり開く。
「必要なら、生年月日をいおうか」
らねえよ、そんなもん〉
 刺々とげとげしさのなかに対話の意思が読み取れた。茂田は茂田で、決裂を望んではいないらしい。
 それだけに気になった。この電話の目的が。

「佐登志は――」
〈死んだよ。昨日〉
 スマホを握る手が強張こわばった。同時に身体の芯から力が抜けていく感覚があった。死んだ。佐登志が死んだ。
「そうか」
 ようやく出た台詞は、床に転がる三キログラムの鉄アレイより味気なかった。
〈何が可笑おかしいんだよ〉
「いや……、すっかり置物になってると思ってな」
 茂田が不服そうに鼻を鳴らした。わけわかんねえ、とでもいうように。
 そうか。おれの吐息は笑っていたか。だがそれが、はたしてどんな感情による笑いだったのか、自分でもよくわからない。
 二十年。うんざりするほどの年月が、おれと佐登志のあいだには横たわっている。かろうじてつながっていたか細い糸が、たったいま、不意打ちのように途切れた。
「それで――」河辺は事務的に訊いた。「君の用件は?」
 茂田の絶句が伝わってきた。
〈ふつう、もっと先に訊くことあんだろ。あんたらが友だちならよ〉
「友だちだ。だが人間を六十年近くもやってると、嘆き悲しむにも手順が要るんだ」
 なんだよそれ――。若者の疑問に、まったくだ、と河辺は思う。
「この番号は佐登志から?」
〈そうだよ。それ以外にねえだろ。何かあったらしらせろって頼まれてたんだ。こんな番号がほんとにつながるのか、信じてなかったけどな〉
「伝書鳩の時給は幾らだ?」
返事がやんだ。それからドスのきいた声がする。〈おっさん。いいかげんにしろよ〉
 河辺は黙ってみた。茂田の息づかいに、はっきり怒りがにじんでいた。なのに電話を切る様子はない。
 だんまり勝負は、先に茂田が折れた。
〈伝言がある〉
「おれ宛てにか」
〈ああ、あんたにだ〉
つばを飲みそうになるのをこらえる。
「どんな?」
〈こっちにきたら教える〉
「もったいつけるじゃないか。あとでもいまでもいっしょだろ」
〈駄目だ。これは譲れない。あんたがこっちにきてからだ〉
「まるで、お宝の地図でも見つけたみたいな慎重さだな」
 あざけるような鼻息。そこに潜むわずかなぎこちなさを、河辺は聞き逃さなかった。
 しかし駆け引きはここまでだ。
「どこへ行けばいい?」
西堀にしぼり
 しばらくぶりに聞いた名称。けれどそれがどこにあるどんな地域か、違和感なく了解できた。
「わかった。行こう」
〈いつになる?〉
「三時間後」
 即答し、河辺は立ち上がった。

 ふたつに分かれたクローゼットの上段で山盛りになっている上着とシャツ、ズボンやタオルを床にぶちまけ、毛布と背広がいっしょくたに積まれたごみ溜めの奥から何十年も前に買ったリュックを引っ張りだす。もうどのくらい、これを使っていないか記憶を探る。買い物も仕事も手ぶらが板についている。それでこと足りる生活が長くつづいている。
 下着と肌着と靴下を二組ずつ床から拾いリュックに詰める。少し迷ってから背広をつかむ。葬式があったところで出る気はないが、それとこれとは話がちがう。つまり気持ちの問題だった。
 急ぎ足で向かった玄関で備え付けの姿見に目がいった。穿きっぱなしのチノパン、染みの跡が目立つ白Tシャツ。いまさら恥じらいに尻込みする歳でもないが、ひどいものだった。げっそりとした面構え。三分後に野垂れ死んでも驚きひとつない風体。ともかく上着くらいもっていこうときびすを返す。
 しみったれたブルゾンをリュックといっしょに肩にかけ、部屋を出た。アパートの外付けの階段を三階から駆けおりる。最上階に借りた部屋は値段のわりに広く日当たりもいいが、次に震度四以上の地震があれば命の保証はないと大家から耳打ちされている。二階を過ぎるとき外国語の歌が聞こえた。たぶん中東辺りの、こちらでいう演歌みたいな曲だろう。

 駐車場まで少し歩く。小汚い建物が密集するこの町にカーポートなんてものは見当たらない。住人のアシはせいぜい自転車か原付で、それだっていつ盗まれても文句はいえない。そういうたぐいの地域であった。
 すぐさま汗が噴き出た。九月も終わりかけている事実をとうてい承服できないほど日差しが強い。この調子だとブルゾンは鼻紙ほどの役にも立つまい。とはいえそれは東京ならという話であって、目的地の西堀は、長野県松本まつもと市にある。
 倉庫じみた月極め駐車場を契約しているのは河辺でなく、海老沼えびぬまという昔馴染みの男だった。ささやかな食い扶持ぶちと倒壊寸前のアパートを世話してくれたのだから恩人といっていい。ついでに今日、この社用のプリウスを拝借しても罰は当たらないだろう。
 頭に順路を浮かべながらエンジンをかける。首都高から中央自動車道、そして長野自動車道……。一拍遅れでカーナビに目的地を打ち込んだ。ほぼおなじルートが表示された。いまのところ事故や渋滞情報はない。
 プリウスを発進させる。池袋方面へ走らせる。順調に行っても三時間後の約束は守れそうになかった。法定速度を守るかぎりは。
都道に合流したタイミングで茂田の台詞が思い出された。もっと先に訊くことあんだろ――。
 わかっている。そのとおりだ。まずは死因。家族の有無、生活の様子。力になれることがあるかどうか。これくらい、誰だって思いつく。友だちならば。
 そう。友だちだ。それを疑ったことはない。

 甲高い電子音が鳴りはじめた。ドリンクホルダーに突っ込んでおいたスマホを見ると、海老沼の名前が表示されていた。
 スピーカーで通話にする。「何か用か」
〈何か? 用か?〉海老沼の機嫌はわかりやすかった。〈なあ河辺さん。おれが馬鹿だってんなら教えてくれ。あんたもしかしていまこのおれに、『何か用か』って、そういったのか〉
「たぶんな。すまんが寝起きでよく憶えてない」
〈そうかい。だったら馬鹿はあんただ。いいか、よく聞け。『何か用か』って台詞はな、人様にこれっぽっちも迷惑をかけず、身勝手な行動は慎んで、なんの用事も生まないような奴だけが口にしていいもんなんだぜ〉
 朝っぱらから元気なことだ――。河辺はため息をこらえた。相手は宵の口から飲みつづけ、目をつむるきっかけを逃したときのテンションだった。
電話の理由は察しがついた。お気に入りのプジョーが盗まれ、川崎のコンビナートで無残なガラクタとなって見つかって以来、海老沼は所有する車に特別仕様のGPSをつけるようになった。決められたエリアから出るとスマホに連絡がいくという、猜疑心さいぎしんの塊みたいな代物しろものを。

〈おい、もしもし? 目は覚めたか? こっちは眠くてしようがねえ。だから早いとこ説明してくれ。なんでこんな時間におれの車でおれに断りもなくおれの二十三区を出ようとしてんのか、簡潔にはっきりと、誠意を込めて〉
「ドライブだ」
 ぶちぶちぶちぶち。神経がねじ切れる音がここまで届きそうな沈黙だった。
「気にせず寝てくれ。明日には帰る」
〈は?〉
 ぽかんとした声だった。
〈明日だと? 冗談だろ。今夜の仕事はどうする気だ〉
「送り迎えのドライバーくらい猿でもできるさ。レンタカーの代金は天引きでいい。ガソリン代も」
〈馬鹿野郎! てめえの給料なんぞ前借りで残っちゃいねえ!〉
「海老沼」
 道の先に首都高速五号のランプが見えた。
「高速代も頼む」
 歯ぎしりの気配がした。おなじ職場で働いていた昔から、こいつの気性は変わらない。
〈……あんた、いつまで先輩面が通じると思ってるんだ?〉
「土産を買ってくるよ」
 海老沼が怒鳴る前に通話を切る。すぐにかけ直しのコールが鳴る。それが消えたころ、プリウスがETCをくぐった。

 事故とネズミ捕りに注意を払いながらぎりぎりまで速度を上げた。道は首都高から中央自動車道に変わっている。平日の午前中ということもあってか、八王子から神奈川、そして山梨にいたるまで車の流れはスムーズだった。ちまたでは老人の暴走運転が蛇蝎だかつのごとく嫌われているという。そんな話をつい先日、店の女の子に教えてもらったばかりだが、この調子なら火に油をそそぐ真似はせずに済みそうだった。たかが三時間くらいの運転は屁でもない。ただ少し、目がちかちかする。明るい車窓のせいだろう。ネオンの隙間をちょぼちょぼ走るのとは勝手がちがう。お天道さまの下、それも都内を出るなんて、いったいどのくらいぶりか。
 ふだん、河辺のフィールドは池袋界隈と決まっていた。荒川より北へ行くことはめったになく、目白通りを南へ下るのもまれだった。時刻は日によってまちまちだが、たいてい午後六時ごろ、最初の客の指名が入る。明け方の店じまいまで、ホテル、マンション、一軒家、職場の仮眠室……指定の場所へ店の子を連れてゆく。運ぶのは女の子だけじゃない。女性客相手の男娼たち。ホスト崩れにスポーツマン崩れ。藝大生、慶応大生、前科持ちの半グレ。これが意外に需要があった。海老沼はどうしようもない男だが商売にだけは労を惜しまない。この十年、あの手この手で群雄割拠ぐんゆうかっきょのデリヘル業界を生き延びてきた。
 苦労と成功のぶんだけ酒量が増えた。癇癪かんしゃくも横暴も血中アルコール濃度に比例する。おそらく今回、海老沼は河辺を放りだす決心をつけている。それがひと眠りで覚める悪い夢なのか、雨にも負けず燃えたぎる黒い炎なのか、蓋を開けてみるまでわからない。海老沼に見捨てられれば仕事がなくなる。仕事がないと来月の家賃が払えない。還暦を前にした住所不定のやもめ男がありつける仕事など想像する価値もない。
 そんな現実を他人事のように眺めている自分がいて、我ながら呆れた。
 ネジが一本、外れた感覚だった。あるいは抜けてしまったのかもしれない。湿ってガラクタになっていた手榴弾のピンが。
 南アルプス市を過ぎ、県境が近づく。進行方向右手にそびえる八ヶ岳。長野県内の学校にはたいてい泊りがけで山歩きをする林間学校ならぬ山間学校、いわばキャンプ合宿の行事があって、八ヶ岳は定番のスポットだ。
 ――おれたちが、あの日登った場所は、菅平すがだいら高原へつながる山道だった。

 半世紀ほど昔、小学六年の冬休み。佐登志は遊びの最中も隙あらば雪をつまんで食べていた。それをフーカが見咎みとがめて「ばっちいからやめなえ!」と叱った。東京の光化学スモッグがふくまれているかもしれないよとキンタが知識を披露し、フーカをからかうようにコーショーが佐登志と競って雪をほおばって……。
 黒い影。なぜあのとき、あれを見つけてしまったのか。そしてなぜ、あの背中を追ってしまったのか。
 ふいに説明のつかない感情が込み上げ、河辺は自分の喉をかきむしった。片手運転が車体をゆらし、危うくニュースになりかけた。ハンドルを握り直して気を静める。骨ばった喉仏がひりひりする。こんな発作も、ずいぶんひさしぶりだった。
 軌道修正したプリウスが、長野県に進入する。すっかり足が遠のいている故郷は、目指す松本市の、山を挟んだとなりにある。
 コインパーキングにプリウスをめたのは午前十一時過ぎ。茂田の電話を切ってから三時間と二十分が経っていた。遮るものが何もない真っ平らなアスファルトに立って天を仰ぐ。真っ青な空に凶暴な太陽が浮かんでいる。世界の終わりすら予感させる異常気象に東京も信州も関係なかった。松本城の天守はビルやマンションに隠れ、ここからではまったく見えない。
 待ち合わせの場所へ急いだ。松本の地に馴染みがあるわけではないのに足は迷わず進んだ。地図が頭の中にできている。いや、進むたび地図が復元されていく感覚だった。かつてこの辺りを歩きまわったことがある。たった二日間、けれど濃密な二日間。あのときも河辺は汗だくだった。全国レベルで猛暑の年だったのだ。

 西堀は江戸時代の旧名で、正式な住所ではないものの現在も広く使われている通称だ。松本城の南西に位置し、お堀の内側にあたる土井尻どいじりとともにかつては歓楽街として栄えたそうだが、現代にその名残りはほとんどない。マンションと住宅が小ぎれいにならぶ風景は、猛暑の中を歩き回った平成十一年の夏よりもなおいっそう、拍子抜けするほど健全だった。
 そこに突然、ふっとめまいのような亀裂が入る。道沿いに、なんの前触れもなく看板の連なりが現れる。ずらりとならぶスナックの門扉は真っ昼間の明るさにくすみ、灯の落ちた原色のネオン看板はまるで子どもの落書きだった。ひしめく建物のドア、壁、シャッターに地面まで、どこかしら汚れが染みついている。閑静な住宅地にあって、十分もかからず歩きまわれそうなこの一区画だけ、時の進みを拒絶する不可思議な磁場を放っている。
 店の勝手口に挟まれた細くくねった道を進み、チューブ状の鍵だけが真新しいびた自転車を過ぎたとき、
「河辺さんか?」
 奥に建つレンガ壁のビルから呼び声がした。鉄の階段がむきだしになったエントランスの陰から青年が立ち上がった。金髪の坊主頭。パステルピンクのアロハシャツ、薄汚れたジーンズ。耳には輪っかのピアスがぶら下がっている。下履きはビーチサンダル。その点だけ胸をなでおろす。喧嘩のつもりでこんな恰好をしてくる馬鹿はいまい。
 おなじように向こうも、河辺を値踏みしているらしい。いっちょ前に目をすがめ、余裕ありげに鼻を鳴らす。
「なあ、あんた、河辺さんだよな?」
「君が茂田くんか」
「おい」
 下からのぞき込むようにガンを飛ばしてくる。真っキンキンの坊主頭がまぶしい。
「うぜえんだよ、いちいち。さっきから人の質問を馬鹿にしやがって」
「人の質問を馬鹿にするなんて難しいことをしてるつもりはない。初めまして、河辺だ。必要なら身分証を見せるが」
「おっさん。なめすぎだ、てめえ」
 間近で見る茂田は小綺麗な顔をしていた。さっぱりした雰囲気が店に登録しているスポーツマン崩れの男の子によく似ている。胸板は薄く、そちらは藝大生の彼といい勝負だ。河辺よりわずかに高い身長。百七十五センチくらいか。声で感じたとおり二十代前半だろう。つるりとした肌は殴り合いが日常化した者のそれではなかった。加えて口臭にシャブ臭さはない。
「ボコボコにして身ぐるみいで街中に放りだしてやろうか、あん? おれが声かけりゃ十人くらいあっという間に集まんぞ」
「そうか。何分待てばいい?」
 茂田が目をいたまま固まった。「てめえ――」
「べつにふざけてるわけじゃない。君をなめているわけでもない。兄貴分がいるならそっちと話すほうが早いと思っただけだ。いちおう断っておくが、これでおれも向こうじゃそこそこ顔が利く。下手してケジメとらされるのは君のほうかもしれないぞ」
「は? 見え透いてんだよ、吹かし野郎」
「疑うなら池袋のSRPエンタープライズって会社に電話してくれ。おれの在籍を、組の寺地てらちさんに訊くといい。因縁つけられる覚悟があるならな」
 すごんだ表情に、ひと筋の動揺が走った。SRPエンタープライズは海老沼が表向きやってる会社で、寺地は経理のおっさんだ。
「よく考えてみろ。おれがまともな人間か? 佐登志の友だちが」
 目の前の薄い唇が小刻みに開いたり閉まったりを繰り返した。広いおでこにべっとりと汗がにじんだ。しまったという後悔と、引っ込みがつかない意地とが奥歯でせめぎ合っている。冷めた頭で河辺は思う。これで佐登志が、明るい世界の住人でなかったことが確認できてしまった。
 気の抜けた吐息がこぼれかけた。同時にやりすぎたと反省した。我ながら大人げない。何よりも意味がない。チンピラを押さえつけたがる習性は、いまやたんなる悪癖だ。少なくともデリヘルの運転手という身分においては。
「悪かったよ、茂田くん。こっちもピリピリしてる。なんせ佐登志のことを聞いたばかりで――」
 肩に置こうとした手が乱暴にふり払われた。警戒心もあらわに距離をとる茂田に、憎々しげな視線で刺された。河辺を戸惑わせるほどの、異様な迫力があった。
「怒るな。謝ってるだろ」
「おれに――」茂田の唇が震えた。「二度とおれに、偉そうにするな」
 その怒りの矛先をつかみ損ね、反応が遅れた。
「……ああ、わかった。約束する」
 茂田は燃えるような目でこちらをにらみ、やがておおげさに舌を鳴らした。きびすを返し、来いともいわず歩きだす。不貞腐ふてくされたように肩をいからせる彼に一抹の不安を感じつつ、河辺はスナック通りを進んだ。軒先の安っぽいネオン看板のなかに「LOVE」の文字。ただの愛嬌ではない。そのものずばりを買うことができるのだ。ホステスの多くが東南アジアのご婦人であることからついたあだ名は信州のリトルタイランド。ふつうの歓楽を求めるなら松本駅周辺に店はある。ここへ吸い寄せられるのは、夜のどぎつさに焼かれたい連中だ。

 茂田は迷いなくスナック通りを越え、角を曲がった。少し歩いた先の道沿いに黒ずんだコンクリートのビルがあった。ドアも受付もない玄関口をくぐると、ここが集合住宅であることがわかった。奥にのびる通路の左右に武骨なドアがならび、その手前にコンクリートの階段がのびている。フロアの電灯はついていない。一日中真っ暗でも驚くに値しないたたずまいだと河辺は思う。
 茂田は階段をのぼった。中二階になった踊り場に大きな窓が備わっていたが、となりの建物に遮られ陽の光はぼんやりにじんでいるだけだった。空気は冷えている。そして淀んでいる。壁には原因不明の黒染みが、手すりのように二階までつづいている。
「佐登志は、不遇だったようだな」
「あんたはちがうのかよ?」
 言葉を失い、すぐに苦笑がもれた。たしかにこの見てくれで他人を憐むのは滑稽でしかない。
 二階フロアの右側、一番奥の部屋の前で茂田は止まった。ジーンズのポケットから無造作に鍵を取りだしガチャリと開ける。二〇六号室。
 ドアが開くと、冷気を感じた。日当たりがどうとかいうレベルではなかった。冷房、それも最低温度を最大出力で吐きつづけているような。
 茂田にならい、土足のままあがった。三歩で終わる廊下。左手のドアは便所だろう。風呂があるかはわからない。あってもユニットにちがいない。
 ヤニ臭いワンルームを目の当たりにし、既視感に襲われた。キッチンの位置、窓の位置、広さも内装の雰囲気も、何より掃除という文化を捨ててひさしいありさまが、自分のアパートと驚くほど重なった。
 そしてベッドの位置。

「どういうことだっ」
 思わず叫んだ。床の物を蹴散らしながらベッドへ進んでいた茂田がふり返り、「はあ?」という顔をした。それは怒鳴られた理由がほんとうにわかっていない表情で、河辺は目の前の青年にかすかな怖気おぞけを覚えた。
 短く息を吐き、気を静め、あらためて茂田に問うた。「なぜだ?」
 意識はベッドへ向いていた。そこにしなびた男が仰向けに寝ていた。あきらかに息絶えていた。河辺の直感は、彼が五味佐登志であることを、歳月の隔たりを超え確信していた。
「通報を、してないのか」
「え? ああ。仕方ねえだろ」
 彼のいう「仕方なさ」が想像できず、呆然と茂田を見やる。
「だってこういうの、どうしたらいいかわかんねえし」
 すねたような口ぶりだった。あとはかすかな不安のほか、悪びれた様子も、やましい底意そこいもうかがえない。それがよけいに、河辺には不気味に映った。
 気を取り直し遺体へ目をやる。佐登志は口を半開きにしていた。目はつむっていた。もっさりとした髪の毛は真っ白で、頬はこけてしわくちゃだった。薄い掛け布団が胸のあたりまで覆っていたが、とくに外傷があるふうでもない。人間が死ぬことによる悪臭もほとんどない。エアコンと掛け布団のおかげだろう。そしてたぶん、オムツをしているのだと河辺は察した。
 自然とため息がもれる。いうまでもなく、おれたちは歳をとったのだ。
 脳裏を、いくつかの常識的な選択肢がよぎった。それに伴うわずらわしさ、あるいは労力、そしてリスク。すべてを天秤てんびんにかけたのち、茂田にいった。
「くわしい話を聞かせてくれ」
 河辺は掛け布団をめくった。佐登志はランニングシャツと、下は安っぽい寝間着を身につけていた。予想どおり汚物の臭いが鼻を刺した。顔を近づけ、首もとから順に全身を観察する。
「昨日の夜、一時くらいにそこでそうなってんのを見つけてよ。死んでんのはすぐわかったから、だからやべえってなって」
「ひとりだったのか?」
「佐登志さんに女はいねえよ」
 佐登志さん――か。「じゃなくておまえのことだ。ひとりでここにきたのか」
「え? ああ、そう。ひとりだよ。だってふたりも三人も連れてくる必要なんてないだろ?」
「おれのほかに報せた相手は?」
「いねえよ」
 うなずく代わりにかがめていた腰を起こす。背筋をのばすと強張った筋肉がほぐれた。
「佐登志は独り身だといったが、子どももいなかったのか」
「じゃねえの? 昔のことは知らねえけど」
 茂田は苛つくようにそっぽを向いた。どこへ視線を投げようと、カップ麺の容器やペットボトル、空き缶、肌着やジャージがごちゃまぜに散らばった床があるばかりだ。
「おまえと佐登志の関係は?」
「おい。さっきからおまえ、おまえって――」
「茂田」
 正面から見つめる。「自分の置かれてる状況を理解したほうがいい」
瞬間、あの燃えるような瞳が現れた。しかし今回はおびえのほうが勝っていた。
「おまえは見つけた死体を放置している。それだけでもパクられておかしくない。おまけにエアコンをかけちまった」
「エアコンの、何が悪いんだよ」
「おまえ、杯はもらってるのか」
「は?」
「組の杯だ」
「そんなもん、ねえ。あるわけねえ」
「そうか」いいながらスマホを取りだし、操作方法を思い出しながらカメラを起動する。「だとしても無関係ではないよな」
「……何がいいてえんだ? さっさとエアコンの話をしろよっ」
「ずっとその話をしてるんだ。ヤクザの使いっ走りが死体を放置して、おまけに部屋をキンキンに冷やしたっていう馬鹿話をな。いいか? こんな告白を聞いて、まともな人間はどう考える? 何か事情があって死亡時刻をごまかそうとした。おれが刑事なら、真っ先にそう疑う」
 茂田の表情が青ざめた。その横で河辺は、握ったスマホで佐登志の死体を撮影してゆく。
「仮にやましいことがなくても面倒は避けられない。おまえの雇い主にも迷惑がかかるだろう」
「ざけんな!」
 茂田が吠えた。そして下唇に手を当てた。「おれは、ただ……」
「茂田」
 悪態すら見つけられないでいる青年を正面から見据える。
「佐登志とのことをぜんぶ話せ。そしたらアドバイスくらいはしてやれる」
 こちらをにらみながら、茂田はつまんだ唇をぎゅうっとねじった。幼さの残る逡巡しゅんじゅんと、河辺は黙って向き合った。
「……そんなに、長い付き合いじゃねえよ」
 出会いは今年の二月。地元の逆らえない先輩からアパートに住む女の子の面倒を任された。タイ人、フィリピーナ、コリアンガール。部屋には二段ベッドがふたつあり、四人でも五人でもいっしょに暮らせるつくりになっているらしい。
「どいつもこいつも歳くって稼げなくなった連中で、そのくせワケありなもんだから、ちゃんとカネをつくるまで監視しろっていわれてたんだ」
 まともなホステス業なはずがない。地元ヤクザが仕切る過激な店が勤め先というわけだ。
 女の子のほか、アパートの住人はふたり。一階の管理人室に住む老婆と、ここを根城にしていた佐登志だ。
 佐登志の首筋を撮ろうとした手を止め、たまらず河辺は口を挟んだ。「こいつは組員だったのか」
「そういうんじゃねえよ。佐登志さん、刺青いれずみとかもなかったし」
「なら、どうして囲われてた?」
 数を住ませてなんぼのタコ部屋をひとりで使っていたのだ。それなりの待遇といっていい。
「安上がりだからだろ。力仕事とか雑用とか」
「オムツしてるようなジジイに、どんな雑用と力仕事ができるんだ?」
 茂田は気まずそうに黙った。あらためてベッドの周りを見る。壁ぎわにオブジェのように散らばっているビールの空き缶、ワンカップ、焼酎の瓶。それらでパンパンにふくらんだゴミ袋の山。たとえこれが数年間にわたる成果であっても、まともな神経を腐らせるには充分と思える量だ。
 河辺はそれらにもカメラを向けた。「ずいぶん、悪かったんだろ?」
「頭が? それとも身体?」
「どっちもだ」
「ふだんは平気だった。ほとんど外には出なかったし、おれ以外相手する奴もいなかったけど、でもまあ、いちおう話はできたし、なんつーか、マシだった」
 言葉を探すように肩をすくめる。「酔うと、どうしようもなかったけどな」
「酔ってないときもあったのか」
「週に五、六時間くらいはな」
 口ぶりに乾いた笑みがにじむ。「先輩から、住み込みで世話してくれって頼まれて、最初にしたのがクソ掃除だった。泣きたくなったけど、断れねえだろ?」
 河辺の返事を待たずに早口でまくし立てる。「酒を取り上げたら騒ぐし暴れるし、泣くし。だから話し合ったんだ。お互い気持ちよく暮らすためのルールについて」
「その成果がオムツか」
 今年の二月からとはいえ共同生活は半年を超えている。部屋の様子を見るかぎり、茂田もまた掃除という文化に縁のない人間のようだった。
「カネはどうしてたんだ」
「組からまわってくるのを、おれが預かってやりくりしてた」
「現金でか」
 当たり前だろ、という表情が返ってくる。このご時世、タダ飯を食わせてくれるヤクザなどいない。大方、生活保護費をはじめとする福祉サービスからピンハネしていたのだろう。通帳とカードさえ押さえておけば取りっぱぐれない堅実なシノギだ。
「節約したぶんがおまえのギャラか」
「悪いかよ」
「悪くはない。世界中でみんながやってることだ」
 たとえ佐登志の意思に反して安酒ばかり与えたのだとしても。ろくに着替えを買ってやらなかったのだとしても。
「経済合理性っていうんだろ?」
 顔をしかめた茂田が、つまらなそうに舌を打つ。
 河辺はあらためて部屋を見まわす。クローゼットの位置まで自分の住まいとまったくいっしょだ。もっともこの部屋のそれは、洋風の押し入れと呼ぶほうがしっくりくる見てくれだったが。
「経済的にいえば、もっと狭くていいはずだがな」
「どういう意味だよ」
「酔っ払いのジジイを囲うには広すぎる。おなじピンハネなら商売女を四、五人住まわせるほうがはるかに儲かる」
「そりゃあ、佐登志さんだって昔からずっと酒浸りってわけじゃねえ。ちゃんと役に立ってた時期もあったんだろ」

 あと――、とつづける。
「これは本人がいってたことだけど、おれはいざってときの人形だって」
 想像がついた。住人同士の揉め事、あるいは組員の不始末による変死。そういった不測の事態が起こったとき、組とは無関係というていで差しだされる身代わり要員だ。
「十年くらい前はさ」茂田がポツリともらす。「駅の公園通りで用心棒みたいなことしてたんだってよ。嘘かほんとか知らねえけど、組の人にも一目置かれてたらしい」
 老兵に対する最低限の敬意。しかしこの部屋にそれを見いだすのは、あまりにロマンチシズムがすぎるだろう。
「遺体を見つけた経緯は?」
 発見は火曜から水曜に変わった深夜一時ごろ。その火曜日、茂田が目を覚ましたのは昼過ぎ。クローゼットの前にあるわずかなスペースが彼の寝床で、そこに寝袋を敷いていた。
 目覚めてすぐ、茂田は飯とシャワーのために部屋を出た。アパートの一階にある共同風呂はシャンプーの最中にゴキブリを踏んづけて以来使うのをやめていた。
「だから駅前のサウナか、付き合いのあるソープで安く借りるんだ」
 前々日にスロットで勝ち、財布に余裕があったため、この日はサウナを利用した。
 定食屋で飯を食い、アパートに戻ったのは夕方五時過ぎ。受け持ちの女の子をもれなく出勤させるのが茂田のいちばんの任務だ。
 それを見届けたあとは適当に時間をつぶす。漫喫まんきつでだらだらしたりパチンコ店で遊んだり。たまに先輩や組の人間に呼びだされる。手伝いをさせられたり、飯に連れていってもらったり。
「いろいろ頼まれるのは面倒だけど、信用されてっから仕方ねえよな」
 あとは明け方に最後の子がはけるまで、街中をうろつくのが仕事といえる。夜中に一度、ここに戻ってくるのは日課だった。酒を届けないと佐登志がうるさいからだ。
「買い貯めしとくとすぐぜんぶ飲んじまうからな。ちょっと遅いってだけでくそみそに怒られたこともある」
 午前一時もいつもよりは遅い。だがこの日にかぎり、佐登志は愚痴のひとつもこぼさず、その半開きの口がふたたび動くこともなかった。
 ベッドに仰向けで寝転ぶ友人を見つめた。あらためてその首筋に顔を近づけ、最後の一枚を撮影する。「――この状態のままだったのか?」
 河辺の質問に、「ああ」と答えが返ってくる。
「遺体を動かしたりふれたりは?」
「ねえよ」
「おまえ以外の誰かがここにきた可能性」
「たぶんない。外へ出るときは鍵を閉めたし」
「エアコンをかけたのは?」
「なんとなくさ。このままじゃまずい気がして。現場保存とかって聞いたことあったし」
「それなら一一〇番も耳にしたことがあるはずだがな」
 茂田はむすっと唇をゆがめ、けれどいい返してはこなかった。
「それで?」
 眉間にしわを寄せた仏頂面に問いかける。
「佐登志はおまえに何を頼んだんだ?」
「何って……だから、もし自分がくたばったら河辺って男に報せてくれって」
 七月の終わりごろだと茂田は語る。たしか有名な馬が死んだとかで佐登志さん、へんにブルーになっててさ。様子が危なかったから明け方まで飲みに付き合ったんだ。佐登志さん、その馬がどんだけすごかったかって話をずっとしてて。そいつが引退してからいろいろ潮目が変わっちまったんだって泣きだして……。その流れで、おれも長くないとかいいだして――。
「酔ったいきおいだったんだろうけどさ。あんたのこともろくに説明してくれなかったし」
 ただ、昔の友だちだという以外。

「ディープインパクトだ」
「は?」
「七月に死んだ馬の名前さ」
 いいながら河辺はもう一度、ベッドに横たわる佐登志へ目をやる。中学生のころから危なっかしい兆候はあった。学校帰りに制服の上着を脱ぎ近所の雀荘に立ち寄っていた男だ。「教育県」を自任する長野県には昔から競馬や競艇といった公営ギャンブルの会場や場外馬券場が存在しない。当時、一介の中坊ちゅうぼうが競馬の知識を得るにはそういう大人と知り合うしかなかった。ギャンブルと裏社会は、いまより密接に絡み合っていた。
「伝言も、そのときに聞いたんだな?」
 佐登志が、河辺に残したという伝言だ。
「内容は?」
 茂田が視線を外した。唇をいじりながら言い訳のようにいう。「伝言ていうか、なんていうか……、ちょっとわけわかんない感じなんだけど」
「いいから教えてくれ。文句はいわない。たとえそれがどんなくだらない内容でも」
 決心をつけるようにひと息つき、茂田はこんなふうに切りだした。
永井荷風ながいかふうって知ってるか?」
 すっと、胃の底がきしんだ。
「明治生まれの小説家らしいんだけど」
 パステルピンクのアロハシャツを着た金髪の青年が口にすると、まるで吹き替えのように聞こえる台詞だ。
「『濹東綺譚ぼくとうきたん』とか、『腕くらべ』とか―」
「『断腸亭日乗だんちょうていにちじょう』だろ?」
 驚いた顔が返ってきた。しかしすぐ、納得の色に変わった。
 胸に手を当てる。茂田に気づかれないよう、気を静める。
「開けてみろよ」
 茂田が差す指に従って、河辺はふり返った。押し入れのようなクローゼットがそこにあった。いま一度、茂田のほうを見やると、彼はただ、うながすように顎をしゃくった。
 白い木製のクローゼットと向かい合う。瞬間、五十年前に降った雪が脳裏をちらつく。
 取っ手に指をかけ、スライドさせた。扉は簡単に開いた。もしここが河辺の部屋なら中には衣類や毛布が詰まっているはずだった。
 河辺は目を見開き、唾を飲んだ。
 クローゼットは三つに分かれていた。右側半分に服掛けの吊り棒がついた長方形のスペース。左は河辺の部屋とおなじく上下二段になった収納スペース。
 その空間のすべてが、みっしりと埋まっていた。
 本だ。
 本、本、本――。
 横に寝かせて積まれた山が、前後左右、まんべんなく連なって、壁どころか、大きな立方体をつくっていた。吊り棒のほうには単行本の山もあったが、ほかはぜんぶ文庫か新書のサイズだった。ほぼすべてに帯がなく、半数ほどはカバーもない。タイトルと作者が印字された背の部分は小汚くすすけ、ページの黄ばみが確認せずとも想像できた。
「すげえだろ?」
 どこか誇らしげに茂田がいった。「二千冊はあるんじゃねえか? ずっとため込んでたらしくてさ。美術館のそばのマンションからここに移ってくるとき、本を運ぶのがマジでたいへんだったって佐登志さん笑ってた」
 河辺は曖昧にうなずきながら、背に印字されたタイトルを追った。『阿部一族』、『男どき女どき』、『宮本武蔵』、『この人を見よ』、『愛の詩集』、『贋金にせがねつくり』、『リロ・グラ・シスタ』、『不連続殺人事件』……。
 思わずつぶやいた。「めちゃくちゃだな」
 文学、通俗小説、詩集、思想書、新書、ミステリー……。目に映るかぎり、およそ文字で書かれているという以外、ジャンルも時代もばらばらだ。
「馴染みの古本屋がいるんだ。よぼよぼのじいさんなんだけど、月に一回トランクに本を詰めてやってきて、佐登志さんがその中から買うやつを選んで」
 多いときで二十冊。店にとっても悪くない稼ぎだったろう。ラインナップを見るかぎり、売れ残りを手当たりしだいといった趣きもある。

 しかし茂田の見方はちがった。「たぶん佐登志さんのほうがいろんな種類を頼んでたんじゃねえかな。なんでもありだから増える一方でよ。いいかげん床が抜けるって脅しても、ぜったい捨てようとしねえんだ。おれがちょっとさわっただけでブチギレるしよ」
 部屋が汚れ放題なのも、クローゼットの本だけがきれいに積まれているのも、茂田が住みはじめる前から変わらない佐登志のやり方だったという。
「しかもこれ、ぜんぶ読破してるんだって」
「こいつもか?」
 塊の最上部に置かれた文庫を手に取る。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』。茂田は肩をすくめた。「だとしたら、酔ってない五、六時間を使ったんだろうな」
 嘘か真かはどうでもよかった。ただ、戸板を一枚挟んだこちらと向こうの落差に、胃の底がざわついた。アルコールの残骸が散らばる俗世と、活字が織りなす知性の同居が、佐登志の心の何がしかの奇形を表している気がして、しかしそれは、必ずしも河辺に退廃だけを感じさせはしなかった。
「で、これなんだけど」
 茂田がジーンズの後ろポケットから一冊の文庫本を引き抜いた。カバーのないむきだしの表紙に小さな文字で、『浮沈うきしずみ来訪者らいほうしゃ』と記されている。そして「永井荷風」の文字。
「知ってるだろ?」
「いや、初めて見る」
 茂田が眉をひそめた。「嘘つくなよ。さっきはくわしかったじゃねえか」
「荷風は文豪だ。代表作くらい、おれの世代ならみな知ってる」
 歯が浮きそうになるのをこらえた。名前は耳にしてても、じっさい読んだ人間がどれほどいるか。まして河辺が挙げた『断腸亭日乗』は荷風が四十年にわたって記した日記文学だ。代表作の呼び声があるのは事実だが、そうとうの物好きでないかぎり手をだせる代物ではなく、それは河辺が少年だった当時も変わらない。
 そう。物好きな人だった。荷風を愛する、あのキョージュと呼ばれていた男は。
「ごまかしてんじゃねえだろうな」
 茂田に、昭和三十四年生まれの常識がわかるはずもなかった。
とはいえ河辺も、彼が取りだした文庫本に本心から首をひねっていた。
「その本が、おれへの伝言なのか?」
 探るような目つきでにらまれた。茂田は文庫本を守るように腰を引き、筋肉を強張らせている。
 河辺は顔の高さに両手を上げた。「落ち着け。おまえをどうこうする気はない。もちろんおまえの取り分も」
「……どういう意味だ」
「こんな面倒事、いくら同居人の頼みでもタダで引き受けるお人好しはいないだろ。とくにおまえみたいな、賢い若者ならなおさらな」
 皮肉はストレートに皮肉として受け止められた。茂田の肌がみるみる赤らんでゆく。
「佐登志だって承知していたはずだ。自分が死んだあとおまえに働いてもらうには、ちゃんと報酬を用意しておく必要があるってな」
 そしてそのヴァリエーションは多くない。
「カネか?」
 この世でもっともシンプルにして、強力なモチベーション。
「もう少し推理してやろう。七月に飲んだとき、あいつがした報酬の話をおまえは酔っ払いの寝言だと思って聞き流した。ところが奴が死んでから、いかにもそれらしいヒントを見つけて、まさかマジだったのかと慌てている。どうだ、なかなかいい線いってるんじゃないか?」
「……うるせえ」
「おまえはそれを黙ってネコババしてもよかったはずだ。なのになぜか律義に連絡を寄越してきた。しかも電話だけじゃなく、直接会いにこいというおまけ付きで」
 眼光を、茂田に飛ばす。
「答えはこうだ。おまえは佐登志の残したヒントを読み解けなかった。意味不明だった。だから仕方なく、おれを巻き込むことにした。佐登志の思惑どおりにな」
「うるせえっつってんだろ!」
 悪党として茂田は、致命的なほど感情のコントロールが足りていない。
「ムカつくのはわかるが、あいつの気持ちも察してやれ。何せ死んだあとの話だ。おれが奴の立場でもネコババを心配するし、策のひとつやふたつは仕込んでおく。たとえ相手が金髪のチンピラだろうと、悟りを開いた坊さんだろうと」
「てめえ――」
「だが」と河辺は遮る。「だがおまえの、佐登志を慕っていた気持ちは疑わない」
 茂田の唇が声をだし損ねた。その小刻みな動きに、迷いがはっきりと見てとれた。
「死体の横で唾を飛ばし合うのはやめよう。おれはこのまま帰ってもいい。佐登志の死に顔を拝めたのは感謝するが、無駄な長居をする気はない。話すか話さないか、おまえが決めてくれ」
 茂田を見つめ、身体から力を抜く。やわらかな声をだすための準備は、けれど河辺に、たんなる手順を超えて鈍痛のような感情をわきあがらせた。
「佐登志はおれに、何を残したんだ?」
 口にした台詞の裏で問う。なぜ、生きているうちに連絡をしてこなかった?
「――分け前は?」
 ようやく聞けたのは、ショットグラスよりも底が浅い返答だった。
「七・三。これ以上はゆずれねえ」
「要らん。ぜんぶやる」
 文字どおり吐き捨てた。「札束だろうが古文書だろうが勝手に持っていけ」
「カッコつけんな。誰が信じるかよ」
 いっせいに体温が引く。体内でうごめくマグマを感じる。これ以上関わるのをやめようか。それかこの若造を、顔の形が変わるまで殴りつけてやろうか。
 視線を落とし、ひと息つく。マグマをおさめる手順として。
「そんなにいうなら三でも四でももらってやるさ。こんな生活をしていた男に、取り合うほどの財産がほんとうにあるならな」
「七・三でいいんだな」
「ああ。端数は勝手に切り捨てろ」
「よし。契約成立だ」
 妙に力強くいう。契約成立。まるでそれが手柄であるかのように。
「ほら」
 と、茂田が文庫本を差しだしてきた。「佐登志さんはこれを『来訪者』って呼んでた」
 受け取った『来訪者』は、なんの変哲もない薄汚れた古本だった。新潮文庫。ジーンズの後ろポケットにしまえるくらいの厚さ。
「最初のページを見てみろよ」
 茂田に従って表紙をめくる。中央に横書きでタイトルと筆者名が素っ気なくならんでいる。その下半分を、豪快な手書き文字が埋めていた。黒のサインペンで縦書きに五行、印字された社名を無視して記されている。

ちまたに雨がふるやうに
わが山に雪がふる
幼子は埋もれ、音楽家は去った
狩人と、踊るオオカミの子どもたち
真実でつながれた双頭の巨人

「大丈夫かよ?」
 茂田の声で我にかえった。玉のような脂汗。動悸どうき。手もとの震えをごまかすように、河辺は左手で額をぬぐった。
「あんた、その詩の意味がわかるのか?」
「――少しだけな」
 えっ、と上ずった声があがる。「ほんとかよ」
「信じろとはいわない。正解にたどり着ける保証もないしな」
「いいよ。いいからさっさと教えろよ」
「その前に、あいつの携帯を見せてくれ」
 茂田が面倒くさげに顔をしかめた。きつくにらむと渋々、今度はジーンズの前ポケットをまさぐる。差しだされた電話機はシンプルな、いわゆるガラケーだった。
「でも中身、ほとんど空っぽに近いぜ」
 茂田のいうとおりだった。メールの使用はなし。アプリもゼロ。まさしく「携帯できる電話機」だ。肝心の電話のほうもひどかった。アドレス帳にならぶのは中華、ラーメン、すし、クリーニング、酒屋、電気屋といった属性だけで、店名すらない。
 佐登志の生活がしのばれた。本を読むか、酒を飲むか、その両方か。社会と関係を結ぶ意欲を失った男の実像。あるいは『論理哲学論考』などという代物は、酔っ払いでもしないと理解できないのかもしれなかった。
着信履歴を見て、河辺はさらに眉間のしわを深くした。ひたすら数字で埋まっている。驚くことに佐登志は、個人をひとりも番号登録していなかった。
「これは、組が用意したものか?」
 茂田がうなずく。「連絡がつかないと役所がうるさいらしくてな」
「自分のは?」
「ずいぶん昔に処分したってさ」
「――あいつは、どうやっておれの番号を?」
「知らねえよ。でもおれに教えるっつって、すらすら口にしてたけどな」
 暗記していたのか。大昔、みながそうしていたように。
「もういいだろ? 取り調べを受けたくて呼んだんじゃねえぞ」
 ここまでのところ茂田に嘘やごまかしは感じない。
 しかし。
「この落書きの、どこにカネの匂いがした?」
 下手くそな五行詩。これだけを手がかりに本気でお宝を探すつもりならクスリでラリってる可能性を検討しなくてはならない。
 鋭い目つきのまま茂田は黙った。先ほどまでのむやみな敵意はなりをひそめ、代わりに打算が、目の前の老人の利用価値を計っていた。
 好きにしろ。どのみち主導権はこちらへ移っている。
「佐登志からもらったヒントはこの本だけか?」
 河辺が掲げた『来訪者』を奪うように引っつかみ、茂田は小さくうなずいた。
「ほかにおれが見ておくものは?」
「ないと思うけど」
「ちゃんと家探しも済んでるわけだな」
 茂田がバツが悪そうに目をそらした。この散らかり具合から元の状態を想像するのは困難だったが、どうせ似たり寄ったりだろう。右にあろうと左にあろうと、ゴミはゴミでしかない。
 一方でクローゼットの中は整然としている。茂田がこの本の山を崩さなかったのは、たんに何もないと決め込んだだけなのか。スマホを向ける。積み上がった塊は、ある種の墓標に見えなくもなかった。
 写真を撮り終え、『論理哲学論考』をズボンのポケットにねじ込んだ。ほかにふれたものは? 布団と、クローゼットの取っ手。足跡も残してしまった。手遅れだ。下手な小細工はしないほうがマシだろう。
 佐登志のガラケーを操作する。チノパンにこすりつけ指紋を消し、茂田に突き返す。
「場所を替えよう。いつまでもここにいるのはまずい」
「まずいって……どこ行くんだよ?」
「ゆっくり話せるところに案内してくれ」
 歩きだす直前、河辺はもう一度佐登志を見やった。たぶん、これが最後になる。口を半開きにした死に顔は無念をにじませているようにも見えるし、たんにほうけているようにも見えた。ベッドの枕もとに備わったささやかな棚。そこに置かれている五冊ほどの文庫本。そのなかに、最後まで手にしていた読みかけのものがまじっているはずだと思ったが、どの本かはわからなかった。
 床に散らばったゴミを踏みつけドアへ進む。待てよ、と叫ぶ茂田にいう。
「佐登志の携帯を戻しておけよ。鍵もな」
「鍵?」
「この部屋の鍵だ。決まった場所ぐらいあるんだろ?」
「あ、ああ、そうだな。いや、でも――」まごつきながら茂田が答えた。「ふだんから、おれが持ち歩いてたんだけど」
 河辺は立ち止まり、茂田をふり返った。眉間にしわが寄る。なるほど。いわれてみればその可能性がいちばん高い。やはり勘は鈍っている。
「わかった、任せる。ただし施錠はおすすめしない。怪しんでくださいと申告したいんじゃなければな」

 今度こそ、佐登志の部屋をあとにする。
 陽はますます強烈に照りつけていた。アパートから駐車場まで迷うことはなかった。一度歩いた道は憶える。若いころにたたき込まれた能力は錆びついていない。錆びているのは関節の節々だ。この程度の速足で息があがるとは。
 後ろから騒がしい声が追いかけてくる。どこ行くんだ? 死体はあのままでいいのか? おい、なんとかいえよ! 河辺は答えない。唇を結んでずんずん歩く。情報を与えずペースを握る。これも昔に教えられたやり口だ。
 視界の隅に松本城の天守が見えた。河辺の足はプリウスを駐めたコインパーキングへ向かう。自動精算機にカネを払いながら、重々しく口を開く。
「兄貴分はどんな奴だ」
「は? おれは組員じゃねえ」
「おまえに仕事をさせてる怖い先輩がいるんだろ。名前は?」
「ああ……、坂東ばんどうさんだよ」
 スジもんかと訊くと首を横にふる。
「だけど顔は利く。あの人は稼いでっから」
「女でか」
「いや、それは組の手伝いみたいなもんで、本業はネットの通販だ。後輩使って、水とか化粧品とか売ってる」
 市内のマンションの一室を拠点にしているという。原価も効能もゼロに等しいグレーな品物をパッケージだけ高級にして売りつける。商品集めにヤクザの手を借り、手間賃という名目で組に上納する。一瞬でそんな構図が頭に浮かんだ。
 精算を終えプリウスへ向かう。
「誰にも佐登志のことは話してないんだな?」
「死んだことを?」
「それにおれのこと、本のメッセージのこと、隠し財産のこと」
 返ってくるのは足音だけだ。
 茂田を見る。手をかけた運転席のドアが熱い。
「正直にいってくれ。おれはべつにどっちでもいい。おまえを相手にするんでも、坂東さんを相手にするんでも」
 本音をいえばアンダーグラウンドな人間と関わりたくはない。その兆候を感じたら一目散に逃げるつもりだ。彼らとやり合う後ろ盾はとっくになくしている。気概も。
 ため息のように声がもれた。
「坂東には相談してない、か。つまりおまえは、佐登志の隠し財産をてめえひとりでいただこうって腹なんだな」
「……悪いかよ」
 こちらをにらむ茂田の目が燃えている。なんだろう―と、河辺は思う。このチンピラが身体の奥に飼っているもの。獰猛どうもうな何か。
「べつに悪くはない」
 運転席に乗り込む。茂田が戸惑いを引き連れたまま反対側へ走る。エンジンをかけたところで閉まったばかりの助手席に尋ねた。
「坂東ってのはどんな奴だ。賢いか? 冷静か感情的か。理知的か暴力的か」
「賢くて冷静で、感情的で理知的で暴力的だよ」
「ずいぶんだな」
「カタギのままで組と対等にやれてんのはカネだけが理由じゃねえ」
 それがほんとうなら敵にしたくないが――。
「するとおまえは、そんな男を出し抜くつもりなんだな」
 茂田は唇を噛んでいる。
「いいだろう」
 プリウスを発進させると、茂田が驚いたように口を開いた。「佐登志さんはあのままか?」
「それはあとでいい。まずはゆっくり話せる場所へ行くのが先だ」
「……エアコンは、ほっといていいのかよ」
 ああ、と河辺は応じる。
「そうだな。このしつこい残暑のおかげで一日中冷房を効かせてたって不自然じゃないだろうな」
 ほんの一瞬、茂田は考え、「くそ!」と吠えた。「騙しやがったなっ」
 河辺は付き合わない。蹴飛ばされるダッシュボードよりも優先すべきことがある。
「ひとつ、大事なことを伝えておく」
 プリウスをコインパーキングから車道へ。煙草が吸いたい――。二十年ぶりの欲求だった。
「佐登志は自然死じゃない。あれは殺しだ」
 パチクリと音が聞こえそうな目つきだった。それから茂田は薄い唇をゆがませ、「もう騙されねえ」と必死に余裕をよそおった。
「殺し? んなわけあるかよ。あんなもん、誰がどう見たって病死じゃねえか」
「病死、か」河辺は適当にハンドルを切って交差点を曲がる。「たとえばどんな病気だ?」
「知らねえよ。知らねえけど、病気は病気だろ。急性アルコールなんとかって」
「あれだけの酒飲みが突然か」
「そりゃあだいたい、死ぬときはみんな突然だろ」
たしかに、と心が納得した。たしかにそれは、ひとつの真理かもしれない。
「だとしたら――」流れるままプリウスを走らせる。「酔っ払う必要があるな」
「は? 当たり前だろ。ふざけてんのか?」
「どこから出てきたんだと思う?」
「酒が? そんなもんあの部屋には――」
 言葉を失った唇に指が向かう。
「なかった」と、河辺はいう。「酒はなかった。佐登志が死んだ夜、おまえはまだ奴にそれを届けていなかったんだからな」
 飲みすぎ防止に考えられた一日一回の配給制度。茂田が死体を見つけたのは、まさにそれを届けようとしたときだった。
「……隠してたのかも。べつに、酒だけが原因ともかぎらねえし」
「ああ、そうだな。心筋梗塞、脳卒中。おれたちの歳であんな生活をしていたら何があっても不思議じゃない」
 だが――。
「だが人は、そう簡単にはきれいに死ねない」
 茂田が、探るような視線を寄越してくる。
「布団に横になって安らかに衰弱死なんてのは、そうとう運がいい死にざまだ」
 たいていの人間は最後まで苦しみ、抗う。はらがすわっているように見えても、いざ死に直面したら慌てふためく。そんな人間をたくさん見てきた。
「佐登志は寝たきりでもなかったんだろ?」
 わかりやすい沈黙が返ってくる。
「あの死体はきれいすぎる。ベッドに姿勢よく寝転んで、おまけに布団までかぶってた。おまえがエアコンをかける前からな」
 しつこい残暑の、寝苦しい夜がつづいていたはずなのに。
「どうだ? おれに話していない事情を思い出さないか? じつはおまえが布団をかぶせたとか、初めからエアコンはついていたとか」
「ねえよ」茂田の思いつめた表情が、ついさっき蹴飛ばしたダッシュボードへ向いている。「ぜんぶ、あんたに話したとおりだ」
「そうか。ならつづけよう。次は状況証拠じゃなく、動かしがたい物証について」
 景色が、市街地から離れつつあった。
「先に訊いておくが、佐登志はクスリをやっていたか? 麻薬のたぐいだ」
「まさか。聞いたこともねえ。昔はともかく、いまはない。買えるカネもわたしてねえし」
 首肯しゅこうしながら河辺は片手運転でスマホを操作する。「見ろ」と茂田に差しだす。画面には、佐登志のデスマスクが大写しになっている。
「首筋のところだ」
 握ったスマホに目を凝らしていた茂田が、え? ともらした。
「これって――」
注射痕ちゅうしゃこんだろう」
 ほんのわずか。けれどはっきり、佐登志の右の首筋に、赤い小さな点がある。
「たとえばこういう手口だ。酒を飲ませて眠らせる。隙をついて強力な睡眠薬をまぜてもいい。相手の意識がなくなったところに、注射器で毒物を送り込む」
「そんなの、バレバレのやり方じゃねえか」
「どうだろうな。毒物がアルコールなら、意外とバレにくいかもしれない」
 唖然とする茂田を横目に、かつて学んだ知識を披露する。「酒で人を殺すのは難しくない。二十年も前のことだが、エタノールとアセトアミノフェンを凶器にして保険金殺人を企てた事件があった。エタノールは酒、アセトアミノフェンは風邪薬の成分だ」
 事件の犯人たちは長期にわたってそれを被害者に摂取させつづけた。
「経口摂取だとそこまで致死率は高くない。だがアルコールを血管注射できるなら、ほとんどの人間がイチコロだ。佐登志の体格なら一ミリグラムも打てば問題なく死亡する」
 泥酔させ、睡眠薬も併用したとすれば大きく暴れることもなかっただろう。
「注射痕も、ダニに噛まれたで納得できるくらいのサイズだ。区別をつけるほど念入りに調査するかは微妙だろう。調査したところで血液から出てくるのはアルコールとせいぜい睡眠薬の成分だ。おまけにあの生活状況を見せられて、真面目に捜査しようって刑事がどれだけいるか」
 家族もいない独居老人。ヤクザの息がかかった大酒飲み。あからさまな殺人の痕跡でもないかぎり、うやむやで処理されてもおかしくない。
「おまえらだって真相なんか求めない。むしろ組は、病死か事故でさっさと片づけたがる」
「あんた、何もんだ?」
 刺々しい問いかけのタイミングで赤信号につかまった。
「わかったふうなことばっかいいやがって。なんなんだ、いったい」
「ただの落ちぶれたはぐれ者さ」
「うるせえ。こんな犯罪マニアがまともな人間なわけねえだろ」
「じゃあ、なんだと思う?」
「――殺し屋とか」
 腹から笑いそうになった。
「まあ、近からず遠からずだ」

 根城にしてたのは桜田門――。喉までそう出かかったがやめておく。元警視庁刑事という肩書には便利さと危うさがつきまとう。誇らしさと、虚しさも。
「安心しろ。物騒な稼業は引退してる。だが役には立つさ。こうなった以上、お互い仲良くやったほうが得だろ?」
「仲良く? 冗談じゃねえ。ただ、契約は契約だ」
 取り分は七対三、か。
「そこは、ちゃんとする」
「充分だ」
 茂田は信じきっているのだろう。人はみな、カネをほしがっている生き物だと。
「で、どうする? そろそろどこへ行くか決めたいんだが」
「勝手に走らせたのはあんただ。こんな場所、きたこともねえよ」
 投げやりにそっぽを向く茂田の横で、そうか、と思った。道沿いはすっかりさびれ、広がる田畑の向こうに山肌が見えている。不格好な案山子か かし、年季の入った軽トラック。休めそうな店はどこにもない。だが方向を間違ったという感覚はなく、むしろこの風景を求めてハンドルをあやつっていた気さえした。
 もう一度、そうか、と思う。どうやらおれは、少しばかり落ち込んでいたらしい。

 信号が青に変わる。
 熱い湯を顔に浴びせた。天井を仰ぐと湯気がふわりと上空へのぼっていった。平日の昼間だ。大浴場に利用客の姿はほとんど見えず、浴場は貸し切り状態だった。河辺は湯船のへりに頭をのせ、湯気の行き先を眺めた。
 松本城のふもとから走りだしたプリウスは北へ北へと進み、気がつくと安曇あづみ市に入っていた。山裾に建つスーパー銭湯を教えてくれたのは茂田ではなく優秀なカーナビだった。
 肩まで湯に浸かった身体から、疲労が溶けていくのがわかった。疲労以上に記憶を薄めたかった。佐登志の死にざま、酒瓶にあふれた部屋、本で埋まったクローゼット。『来訪者』、五行の詩。経験上、過度な思い入れは捜査の妨げにしかならない。
 風呂を出て向かった食堂は入り口側のフロアにテーブル席がずらりとならび、奥の窓ぎわが一段高い畳敷きになっていた。その一角の長テーブルにぽつんとひとり、がつがつしている金髪の坊主頭があった。
「何を食ってるんだ」
 上目遣いでこちらを見る茂田に、せわしなく動かすレンゲを止める様子はなかった。こんな場所で湯上りにチャーハンをかっ食らう感性を河辺はなくしている。唐揚げの一個もいらない。せいぜいソーメンでいい。それすらいまは気分じゃなかった。
「けっこうな身分だな」
 飲みかけの缶チューハイへ顎をしゃくる。
「文句あんのか」
「ないさ。だがおれがここに戻ってこず車で消えたら、おまえどうするつもりだったんだ?」
 ようやく、レンゲが動きをやめた。そんな可能性は聞いてないと見開かれた目が訴えている。半袖短パンの館内着を着たふたりがにらみ合っている姿はさぞかし間抜けにちがいないと、河辺は内心で苦笑する。
「冗談だ。冗談だが、もう少し気を張ったほうがいい。自分の状況を忘れずに」
「……よくいうぜ。のんびり温泉なんていいだしたのはどこの誰だよ。おれは反対したぞ」
 コップに汲んできた水で舌を湿らせてから、「いいか、茂田」と人差し指を向ける。
「おれが現役だったころ、こんな馬鹿野郎がいた。うっかり自宅のマンションで女房を殺しちまった会社員でな。自分のしでかした粗相を隠すため、遺体を解体し小分けにして、ゴミとして処分しようと考えた。小心者だったがひどく真面目でもある奴で、ひと晩中、飽きもせず作業をつづけた。気がついたら朝だ。慌てて着替えていつもどおりに出勤し、そしてあっけなくお縄になった。夜通しの作業で、本人は慣れちまってたんだな。部屋に置いてあった背広やワイシャツにこびりついた肉の臭い。血の臭い、臓物の臭い」
 茂田の喉が波打った。飲み込んだのはチャーハンか生唾か。
「あれはひどいもんだ。掃除したつもりでも家庭用洗剤じゃあ一年くらいは平気で残る。よく、おれも叱られた」
 口がすべった。ごまかすように窓の外へ目をやる。生気にあふれた木々の緑が茂っている。
「ともかく、臭いは馬鹿にできない」
「……服は、どうすりゃいいんだ」
「ピンクのアロハに思い入れがないなら土産物屋で新しいのを買え。まあじっさいはあの短時間で、あのくらいきれいなホトケなら心配ないがな」
「そういう趣味か?」
 不意打ちのような鋭さだった。レンゲが折れそうなほど、拳に力がこもっている。
「そうやって、ひとをからかうのが趣味なのか? まずいとかやっぱりまずくねえとか、ふざけやがって」
「からかったつもりはない」
 ただ、染みついているのだ。挑発、けむに巻く。真意を悟らせない。いつからだろう。そうした話術が変えがたい性格になってしまったのは。
 よく怒られた。これも。
「悪くとるな。油断は禁物というだけだ。まあ、ちゃんとやるから安心してくれ。おまえが捕まれば、おれも困るからな」
「ちょ、ちょっと待てよ」
「声が大きい」
 茂田は口をつぐみ、レンゲを皿の中に放った。
「捕まるって――」
「当たり前だ。おまえがあの部屋で暮らしていたのは事実だし、すぐバレる。指紋から毛髪まで腐るほど証拠はあるしな。いきなり逮捕ってことはなくても探られるに決まってる」
「話がちがうじゃねえかっ」
「容疑者候補から外れたいってだけならそれ用のプランを教えてやってもいい。いますぐ通報して、この二日ばかりのアリバイをでっちあげる上手いやり方をな」
「じゃあ――」
「だが、佐登志の隠し財産を手に入れたいっていうなら話はべつだ」
「なんでだ? 容疑を晴らしてからでいいだろ」
「警察をなめるなよ。いざ動きはじめたときのあいつらほど徹底した組織はない。まず佐登志の隠し財産なんて即座に見つかる。そしてそのカネが不透明なものであればあるほど、おまえの手にわたる可能性は低くなる」
 河辺が言葉を発するたび、茂田の顔色は青から赤へ、赤から青へめまぐるしく変わった。
「カネは――」その中間の顔色で絞りだす。「なくちゃ駄目だ」
 河辺はうなずく。「なら選択肢はひとつだ。佐登志の死がバレる前に、それを手に入れるしかない」
「……ああ、そうだ、そうだな」
 そうだ、そうだよな……と茂田は繰り返した。

 なぜ、この程度の説明で信じてしまえるのだろう。なぜ、自分が騙されていると疑わないのだろう。ぶつぶつつぶやく茂田を眺めているうち、河辺の意識は過去に飛んだ。
 ――なあ、聞いたかよ。
 驚くほど鮮やかに、
 ――これで決まりだ、あいつがやったってことだろ?
 一言一句、
 ――あいつが殺したんだよ!
 熱っぽい響きから弾む白い息まで、ありありと。
 ちくしょう、あの野郎――。
 ぶっ殺してやる。
「誰なんだ?」
「え?」
「犯人だよ。佐登志さんをった犯人」
 一瞬、河辺の思考は空白になった。「ああ……」とうめいてコップの水を空ける。我ながらぎこちない。無為な生活は、狼狽ろうばいの仕方すら自分から奪ってしまっていたらしい。
「それは、こっちが訊きたいくらいだ。心当たりはないのか」
「部屋で本読むか酒飲むかだけの人だぜ? 恨みを買うんだって体力とカネが要るだろ」そういいながら残りのチャーハンに手をつける。
「人間関係はどうだったんだ?」
「おれがいっしょに住みはじめてから訪ねてきたのは飯の出前と古本屋のじいさんと役所の奴だけだよ。ひとりのときは知らねえけど」
「組で関わってたのは?」
「組じゃねえけど、おれの前の世話役はチャボってあだ名の、骸骨がいこつがスーツ着てるみたいなチンピラだ。つってもだいたいほったらかしだったみたいだけどな。まあ、様子見にいってクソもらしてたら嫌にもなるぜ」
 だからこそ茂田にその役割がまわってきたのだ。
「チャボは組関係の仕事を坂東さんに任されてて、佐登志さんの生活費をくれてたのもあいつだ」
 チャーハンを平らげてから訊いてくる。「強盗にやられた可能性はないかな」
「行きずりの空き巣が、わざわざあのボロアパートを選んでか?」
 だとしたら才能がなさすぎる。
「おれの見立てが正しければ犯人は注射器を持っていたことになる。往診の医者か骨まで腐ったジャンキー以外、そんなものを持ち歩いてる奴はいない」
 つまりこうなる。初めから殺すつもりだった。少なくともその可能性を抱いて、犯人は佐登志の部屋を訪ねたのだ。
「じゃあやっぱ」と、茂田がもらす。「隠し財産か」
 犯人の目的、殺しの動機。
「はっきりいってそれ以外考えられねえよ。佐登志さんを殺して得する奴なんてこの世のどこにいるんだよ。どうしてもってんなら、おれになっちまう」
 シモの世話をさせられていた男が両手を広げた。
「隠し財産の話、七月に聞くまで噂のひとつもなかったのか」
「当たり前だろ。そんなのあったら徹底的に調べられて、誰かがとっくに巻き上げてる。組の奴らか、坂東さんが」
 乱暴にチューハイをあおる。自分が口にした坂東の名を押し流すように。
 さて……と河辺は頭をなでた。茂田の言い分を、どこまで鵜呑うのみにしてよいものか。
「そろそろ本題に入ろうか」まっすぐ見やる。「佐登志の隠し財産ってのはなんなんだ?」
 根本的な疑問だった。噂すら存在しない謎の隠し財産。そんな与太話を酒飲みの戯言ざれごとと聞き流さず、なぜ茂田は信じているのか。信じることができるのか。
「ブツが何か、目星はついているのか?」
 現金、有価証券、ダイアモンド……。
「べつに、金の延べ棒でもかまわないが」
「なんで知ってんだ!」
 その反応に、むしろ河辺の目が丸くなった。
「てめえやっぱり、金塊を狙ってやがったんだな」
 疑いの眼差し、怒り――冗談ではない。
「待て。おれはおまえの電話を取るまで佐登志の住まいだって知らなかったんだぞ? それにお宝が目当てなら、もっと紳士的に対応してる」
 そんなことより――。
「佐登志は、ほんとうに金塊を?」
 前のめりになる河辺を、茂田は疑いの眼差しでうかがっていた。
「答えろ。いや、答えてくれ。もしそうなら、おれは宝探しのヒントをやれるかもしれない」
「……ヒントが先だ。あんた、やり口が汚ねえからな」
 ため息をこらえる。身から出た錆。しかし苦い。
「エム」
 茂田の顔色が変わった。瞳孔まで開かんという面だ。やはり悪党の資質に欠けている。
「当たりのようだな」
「……やっぱり知ってたんだな、佐登志さんの昔のシノギを」
「おまえ、煙草は?」
「は? 吸わねえけど」
「そうか」
 ヤニ臭さとは裏腹に、佐登志の部屋に煙草の箱は見当たらなかった。灰皿も空っぽだった。ふたりして煙を吐き合ったのは二十年前、新宿。あいつもやめたんだなと自分の知らない旧友の生きざまを想像しかけ、河辺はテーブルの上を見つめた。コップの水はもう空だった。客が増える様子はなく、おしゃべりの声も聞こえない。
「おい、ちゃんと説明しろよ。ぜんぜん連絡取ってなかったとか、嘘ばっかいいやがって」
 テーブルに唾が飛んでいる。黙れと叫びたくなった。その青っ白い喉を思いっきりつかんで、ねじ折ってしまおうか。それともキラキラしてる両目に指を突っ込んでやろうか。
「まあ――」ゆっくりと顔を上げる。「そうがなるな。こっちは年寄りだ。いたわってくれ」
「よくいうぜ!」両手をふり上げ、膝を崩す。不貞腐れた面で、舌打ちのついでのように、チャーハンの皿に残った米粒を人差し指で押しつぶし、そのままひょいっと口に運んだ。

 ふいに思い出す。雪を食う、小学生だったころの佐登志――。
 突如、過去が、ものすごいいきおいで自分を通過していく気分に襲われた。遠ざけていた記憶が鋭い光の矢になって、びゅんびゅんと飛んでくる。河辺を通過し、またぞろどこかへ過ぎてゆく。何本も何本も、ちがう矢が飛んできて、ぶち当たっては通過して、ほんの少しずつ、河辺の現在を傷つけてゆく。
「金塊の話を――」どうにか軽い口調を保てた。「佐登志は、どんなふうに説明したんだ?」
「どんなって……、よくわかんねえよ。佐登志さん、べろんべろんだったから」
「なのにおまえは信じたんだろ? あんなアパートに住んで、酒すら自由に買えない生活をしていた男が金塊を隠し持ってるなんて、ふつうに考えれば妄想だ」
 茂田は指をなめている。河辺にどこまで手札をさらすか、いっちょ前に吟味しているらしい。
「金塊があるという根拠を聞けないなら仕方ない。もうひとっ風呂浴びて東京へ帰るとしよう」
「くそ!」盛大な悪態が返ってきた。「わかったよ。でも、これはなんつーか、そのときの感じっつーか雰囲気っつーか……ともかく、おれは佐登志さんが嘘をついてるとは思えなかったんだ。上手くいえねえけど」
「話してくれ」
 茂田が観念したようにあぐらをかいた。
 七月の末に飲み明かした夜、初め佐登志はディープインパクトがいかに輝かしい存在であったかを涙ながらに語ったという。あれが全力で走っているとき、競ってるのは馬じゃなかった。もうそんなのは相手にならない。あれはもっと先へ走っていくんだ。どんどんどんどん、未来を追い越していくように。容赦なく、過去を蹴散らすスピードで……。
 スペシャルウィーク、セイウンスカイ、ビーマイナカヤマ、カブラヤオー。とりとめない思い出話がはじまった。「一レース最高で幾ら勝った? 幾ら負けた?」茂田の問いに、佐登志は笑った。「あの時代は十万減ろうが二十万増えようが、ガキの遊びに思えたもんだ」羽振りがよかったころの自慢は、しだいに自分語りへ移っていった。オグリキャップがバンブーメモリーと壮絶な差し合いを演じた一九八九年、二十九歳のときに上京した。サラリーマンならせいぜい係長という年齢だが、平社員でも投資をかじり、ほんのちょっとツキがあれば大金が転がせたバブル真っ盛りのころである。
「でも、上京してしばらくは苦労したってさ。飯も食えない生活で、それでたしか、地下鉄で毒ガスがまかれた年にエムの仕事をはじめたんだって」
 エム――M。
「秘密の財産なんだろ? 大昔の、軍隊だかの」
「いちおう――」河辺は首もとを指でさすった。「一般的には東京湾に沈められた旧日本軍の隠し財産ということになっている」
 それをGHQが密かに回収した。この莫大な秘密財産は当時、経済科学局長として戦後経済を牛耳っていたマーカット少将の頭文字からとってM資金と名づけられた。
 もちろんすべて公的には未確認の、いわば都市伝説に近しい与太だ。にもかかわらずM資金を利用した詐欺は昭和のころから平成にいたるまで、まるで亡霊のように生き残ってきた。
「つまり佐登志は、M資金詐欺に手を染めていたんだな?」
 茂田が小さくうなずいた。「じっさいにどんなことをしてたかは、よくわかんなかったけど」
 経済犯罪――とくに詐欺に類するものは名称からしてわかりにくい。たぶん茂田に金融商品取引法の法解釈とその抜け道を理解させるには大河ドラマ並みの期間が要る。
 話を聞くかぎり、佐登志はカネ余りの資産家や企業人を相手に投資詐欺を行っていたらしい。闇ルートからM資金関連の有力な情報を手に入れた、M資金を管理する委員会が何十年かぶりに会員を募集している、総額ウン千億相当の金塊をバックに世界の名士が名を連ねる投資グループ、厳選されたVIPのみに約束された超高額配当、新メンバー選出審査にあたって必要な幾ばくかの保証金、なあに、リターンの額に比べればチリ紙のようなものですよ、そもそも落選の場合は全額返金されますから云々……。
「それで、客を信じさせるために、いくつか本物の金塊を用意してたんだって」
 M資金の中身は諸説あるが、そもそも与太である以上、なんであろうとかまわない。説得力さえあるなら仏像でも石ころでもいい。そのなかでも黄金は、ピカイチの部類だろう。
「しばらく順調だったけど、何年かしてごたごたがあって手仕舞いにしたらしくてさ。見せ金用の金塊もほんとは現金にするつもりでいたけど、アシがついたらまずいから泣く泣くあきらめたんだって」
「それをどこかに隠した、か」
「でもほんとにやばいから、死ぬまで場所は教えられないって」
 あながち、ないストーリーでもない。詐欺師が口にするブラックジョークとしてならば。

 河辺は息を吐いた。ゆっくりまばたきをする。佐登志が詐欺に、よりによってM資金詐欺に手を染めていた。そこにどうしようもない皮肉を感じてしまう。あるいは人生に対する復讐だったのかもしれない。どのみち答えは、もう聞けない。
 茂田を見つめる。「おまえも、最初は信じてなかったんだな」
「そりゃだって、ヒントっつって、あのわけわかんないポエムだぜ?」
 その時点では文字どおり、酔っ払いの戯言だった。
 だが死体を見つけ、認識が変わった。
「七月の夜を思い出して、『来訪者』をめくってみたんだ」
 それは枕もとの棚にならぶ文庫本にまじっていた。酒を飲むときも本を読むときも、たいていベッドに寝転ぶかあぐらをかいていたという佐登志の傍らに、『来訪者』はずっと置かれていたのだ。殺された瞬間も。
「なんとなくピンときてさ。なんであの本の呼び方が『浮沈』じゃなかったんだって」
『浮沈・来訪者』という書名の、わざとあとのほうを選んだ理由。
「だからきっと、『来訪者』に何かあるんじゃないかと思った」
 中編くらいの長さがある小説は、このような書きだしではじまる。
 わたくしはその頃身辺に起つた一小事件のために、小説の述作に絶望してしばらくは机に向ふ気にもなり得なかつたことがある。
 すぐに茂田は読むのをあきらめ、パラパラとページをめくることにした。
そして見つけたのだという。
「赤ペンの丸で囲ってあったんだ」
 小説の終わりのほうにある、こんなささいな台詞。
「チヱリーを。」
「佐登志さんがよく飲んだのは日本酒と焼酎だ。缶ならビールかチューハイ、それとたまにニッカ。ワインとかはやらない。あの部屋のゴミを思い出せばわかるだろ?」
 黙って先をうながす。
「おれは掃除とかもさせられてたからな。いっしょに住みはじめた最初のころ、壁際の空き瓶をぜんぶ片そうとしてめちゃくちゃ怒られて。だからじゃないけど、記憶に残ってた」
 たった一本、日本酒や焼酎とは毛色のちがう洒落しゃれた黒い瓶の存在を。
「ボルスっていう、チェリーブランデーだった」
「それが、なんなんだ?」
 しびれを切らす河辺をおもしろがるように、茂田はニヤリとした。手真似で瓶を持ち、蓋を開ける真似をする。それから架空の瓶を傾け、手のひらに注ぐ。
「――中に、何か入っていたのか」
「ちっちゃなビー玉だ。ただし純金の」
 河辺は腕を組んだ。茂田の態度を見るかぎり、問題のビー玉をじかに見せる気はなさそうだった。金塊探しが不発に終わったとき、唯一残る報酬だ。一瞬たりとて手放したくないのだろう。
「それからあの夜をふり返ったら、なんかこう、納得できる感じがしたんだ。暗号の、《真実》ってのが、つまり金塊のことなんだって」
 茂田の顔がギラついた。
「佐登志さんは嘘をついていない。金塊はある。どこかに隠されたまま眠ってる。五百万円以上の価値がある、お宝が」
 五百万、か。佐登志が口にした額なのか、それを適当にアレンジした数字なのか。
 河辺は顎を上げ、宙へ息を吐く。どのみち――。
 とっくに引きずり込まれている。茂田にではなく、佐登志に。あの詩を目にしたときから、おれは一本道を歩かされている。双頭の巨人――その影を追って。
「次はあんたの番だ」
 茂田のすごんだ顔が迫ってくる。耳のピアスがかすかにゆれた。つるりとした肌はみずみずしく、隠しようのない若さで満ちている。
「知ってること、ぜんぶ話せよ」
 茂田はわかっていない。それがどれほどの時間を要するか。どれほどの忍耐を要するか。たとえば河辺と佐登志たちとの物語が、あの雪の日にはじまったのだとして、彼が死ぬまで五十年近い時間が流れている。
 まったくおなじように、自分にも。
「いいだろう」
 河辺はゆっくり息を吐いた。
「ぜんぶ話してやる。ぜんぶな」
 宙を見たまま、声をだす。
「おれと佐登志は幼なじみだった。育ったのは松本市の東、独鈷山とっこさん鹿教湯かけゆ温泉を越えた先にある上田うえだ市の、真田さなだまちというところだ」
 当時はまだ市ではなく、小県ちいさがた郡真田町となっていた。山を挟んだすぐとなりは群馬県だ。
「浅間山はわかるだろ?」
 茂田は答えず、ただつまらなそうに唇をゆがめている。
「ほかに仲のいい友だちが三人いた。みな近所の同い年で、小学生のころから遊んでいた連中だ」
 フーカ、キンタ、コーショー。
 組んだ腕に力がこもった。
「昭和五十年代のはじめのほう、年末から年始にかけて、日本中がとんでもない豪雪に襲われた年があった。あの当時―おれたちはあの町で、《栄光の五人組》と呼ばれていた」
 快適な空調の下で、しかし窓から差し込む陽の光を浴びた身体に、汗がにじんだ。

(第1章・了)


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